小園ひろし(小園拓志)のプロフィール

小園ひろしのプロフィールをご紹介します


小園ひろし/小園拓志(こぞの・ひろし)



1977年9月8日 北海道日高町生まれ

[経歴]
1996年3月
灘中学校・灘高等学校卒業

2000年3月
東京大学文科1類(法学部)卒業

[職歴]
2000年4月
北海道新聞社(記者職)入社
江別支局、帯広支社、本社編集本部、報道センター、法務担当

2017年4月
株式会社HandMade入社

2018年9月
御代田町に転入

2018年10月
御代田町長選に出馬表明

2019年2月12日
御代田町長選に立候補


小園ひろしという人間ができあがるまで

【誕生~保育所時代

1977年9月8日
北海道日高町で鹿児島県出身の父と、北海道出身の母の間に生まれました

父は競走馬専門の獣医、母は小学校のすぐ近くでピアノ教室を開き、今でも教えています。一番下の生徒は自分の孫より小さいくらいです

話し始めるのがほかの子よりも遅く、親戚や近所のかたからかなり心配されたそうです。このころからのんびり屋?!

お散歩のときは、赤く塗られた十字マークが入っている「境界標」が地面に埋められているのを見つけるのが大好きでした。父が仕事で使っていた薬剤のマークに似ていたからだと思います

4歳下の妹「りか」は、私が「妹が生まれるなら絶対『りか』に」と両親にお願いして名付けてもらいました

保育所の所長先生から、「人にハサミを手渡すときは相手に持ち手のほうを向けなさい」と言われたのを今でも覚えています。先生にはほんとに恵まれました


【小学校時代】はじめて御代田町にきました

小学1年、2年のときは、日本の心を学ぼうと、近所の先生に茶道を習っていました。今でもあぐらより正座が落ち着きます

漫画雑誌は「コミックボンボン」より「コロコロコミック」派、でした。「おぼっちゃまくん」とか「つるピカハゲ丸」とか…。割と子供らしい漫画が好きでした

切手集めをしていました。もうそのころは時代遅れ気味の趣味でしたが…。ユニバーシアードや国体などのスポーツ大会、植物、芸術作品など、切手からはいろんなことを学びました

1年生の時、「第8回アメリカ横断ウルトラクイズ」で、父の後輩が優勝したのを機に、ウルトラクイズにドハマりしました。年々規模が拡大するにつれて地球の大きさを知りました。全校集会で〇×クイズ大会をやったのは鮮明に覚えています

父が鹿児島出身なので、漠然と「鹿児島ラ・サール」に行くような心の準備をしていました。中学入試用のテキストを見ると、自分の世界が開けていくようなワクワク感を持ちました

母はピアノ教室で忙しかったので、夕方の農協ストアの買い物は私が担当することが多かったです。生協宅配のOCR用紙を鉛筆で埋めていくのも楽しい作業でした

初めて御代田に来たのは小学5年のころ。子供なので風景にあまり興味がなかった気がしますが、それでも目の前に浅間(前掛山)が広がる景色には強い印象を持ちました

小学6年のとき、全国模試で1位となり、もしかしたらさらに上を狙えるかも? と考えて、神戸の灘中学受験を決意しました。運良く合格しましたが、合格発表の時、先に行っていた大阪の友達が「小園の番号あったでえ」と教えてくれて軽くガッカリ?しました。


【中学~高校時代】兵庫の下宿先で震災に遭いました

明治生まれのおばあちゃんがやっている下宿屋さんに入りました。高校1年生が4人、中学1年生が私と、松本市生まれの同級生の2人でした

数学の先生がとにかく厳しく、学校に行くのが憂鬱なときもありましたが、それでも1年頑張るうちに、少しずつ数学の楽しさを体感するようになりました。文系人間ですが、今でも数学は大好きです

早くから「新聞委員会」に入り、中学2年の文化祭で先輩からなぜか「3択クイズ」コーナーを任され、クイズへの思いが強くなりました

中学2年の時、「灘校クイズ同好会」を立ち上げました。中学生のころは、日本テレビの「高校生クイズ」のお手伝いのようなことをするのがメインでした。文化祭で「クイ同」が出す会誌では今でも名簿に名前をのっけてくれていて、少し恥ずかしいです…

「高校生クイズ」の戦績は、高校1年、2年ともYES・NOクイズ1問目敗退。当時はほんとに1問目で終わってしまう残酷な番組でしたが(笑)、だからこそ燃えられたのかなとも思います。母校の初優勝は2016年でしたから、私のころからずいぶん時間がかかりましたね

高校1年の時、新聞委員長になりました。生徒会三権分立の一つです。「灘校新聞」は原則、生徒だけに配っていたものですが、各生徒のご近所さんとかにもなぜか愛読者がいて、知らないおっちゃんから「こないだの〇〇の記事、おもろかったで」と言われたものです

近畿の新聞部同士の付き合いは、男子校生としてはちょっと勇気が要る反面、校内にはない世界でとても充実していました

高校2年の冬休み、ヤマト運輸でアルバイトをしていました。午前6時から9時の仕分け作業です。年末で区切りをつけ、さて、年始はいつ再開できるかなと思っているうち、1995年1月17日:阪神淡路大震災を迎えました

1カ月半の北海道避難生活の後、明治生まれの下宿のおばちゃんとの2人暮らしが始まりました。環境の変化に戸惑いもありましたが、それ以上に、周りで多数亡くなった皆さんの代わりに頑張ろうという気持ちで乗り切りました

震災のハンデを乗り越え何とか東京大学文科1類(法学部)に合格しました


【大学時代】軽井沢で合宿しました

法学部の混声合唱団「緑会合唱団」(他の大学も加入できるインカレ形式)に入ります。一つ上のソプラノの先輩に、のちに妻になる沙織がいました。大学時代もクイズに埋もれるのは我ながら心配だったので(笑)、クイズ研究会には入りませんでした

4年間、渋谷区の端、幡ヶ谷というところに住みました。便利のいいところでしたが割合にのんびりしていて、田舎出身者の性にあっていました

ジャーナリストの立花隆さんの講義が開講し、講義のテープ起こし作業員になったり、その後開講したゼミ「調べて書く」のメンバーになって活動しました。文化祭では著名人に20歳のころについて聞いたインタビュー集「二十歳のころ」を私家本としてまとめ、多数販売しました。その後、新潮社で一般流通の本にしていただきました

3年生で教養学部から法学部に進学し、西尾勝先生の地方分権に関するゼミに入り、地方自治の面白さに目覚めました。これからは中央ではなく地方の時代、と考えて、それまで以上にふるさとなど地方に目が向くようになりました

法学部のゼミでは、中軽井沢まで来て合宿をやったことも。慣れ親しんだ浅間の風景をみんなに楽しんでもらえて大満足でした

4年生の春、地域に根差して働くこと、ジャーナリストになることの両方をかなえるため、北海道新聞社の入社試験を受けました。落ちたら大学院に進学するつもりでしたが、なんとか気に入ってもらえたようで、内定をもらいました。


【支局記者時代】記者として東奔西走しました

前日に有珠山が噴火するという非常事態の下、北海道新聞社に入社、江別支局に配属されました。あらためて、災害にまみれた人生…ですね

江別は札幌の北東隣りにある町です。俳優大泉洋さんの出身地ですが、当時はここまで有名になるとは思ってもみませんでした。あとはれんがと焼き物で有名です

江別市ととなりの新篠津村が活動範囲。事件事故、経済、文化、スポーツなどなんでもやりましたけど、一番力が入ったのはやっぱり行政ネタです。市役所、村役場、議会の取材に走り回り、学生時代勉強した地方自治の現場に触れました

江別にユニークな工場がたくさんあることに気づいて、毎週、市内の工場について紹介する連載記事をスタートさせました。古くからあるれんが工場や再生タイヤの工場、携帯電話の基盤の製造工場など、市内の製造業の幅広さを読者に知っていただきました。10回ほど連載した時点でバス2台を仕立てて読者の皆さんを工場にお連れするツアーもやりました


【支社記者時代】結婚しました

ライバル紙が強い地域で自分を鍛えたい、と会社に申し出て、帯広支社に赴任。経済担当を長くやりましたが、農業を中心とした経済のあらましをしっかり勉強できました

このころ、妻沙織と結婚しました。結婚準備で帯広に来てもらったその日に十勝沖地震が発生…。沙織をほったらかしのまま2人のかたが行方不明となった大津港に急行して津波に襲われながら取材

帯広時代一番の思い出は、一記者ながら仕掛けた「十勝ぐるっと弁当市」。19市町村それぞれ、できるだけその町でとれた食材を使った弁当を、地元の料理研究家や漁協婦人部の皆さんなどに作ってもらいました。今でも残っているブログ記事がありました
https://blog.goo.ne.jp/sagashitai_2005/d/20060620


【本社記者時代】政党の取材に携わりました

記事に見出しをつけたりレイアウトする編集本部に配属され、日曜版の大幅リニューアルにも携わりました

その間、労働組合の青年部長を1年間務め、事実上の専従として組合員へのニュース発行に明け暮れました。会社をもっとよくしたいという理想に燃えて、仕事以上に働いてたかもしれません

外勤復帰後は道庁記者クラブに配属され、総合政策部などの取材のほか、共産党、自民党など各政党の取材にも携わりました

東日本大震災発生後は、学生時代からずっと研究してきた自然エネルギーの担当記者になりました。道内179市町村の太陽光発電普及度調査など、時代にマッチした報道ができたかなと思います


【法務担当時代】会社経営の重要さに気付きました

記者を離れ、経営企画局に。契約書の審査や社内の法令遵守の徹底、株主総会の準備・運営など、記者時代とはまったく違う仕事の数々に、「今まで会社のことを何にも知らなかった」ことに衝撃を受けました

仕事を通して会社や組織の運営に強い関心を寄せるようになり、会社経営の勉強をしなくては、と思い、次のステップについて考えるようになりました

良いご縁があり、転職を決意。子どものころから読み、愛着たっぷりだった北海道新聞を離れるのは大変つらい決断でしたが、かつての上司に、「これからどこに行っても、小園は北海道新聞社から貸し出していると思っておくからな」とありがたいお言葉をいただきました


【転職後】ドローンの可能性を感じました

経営企画室長という肩書で住宅リフォームの会社に就職。施工管理者としての経験を積む一方、会社がやっている花火大会に携わったり、ドローンスクールやドローン運航の事業をやったりと、多岐にわたり仕事をさせてもらいました。地域の子どもたちにドローンプログラミングを教える事業が楽しく、良い思い出になっています

1年半ほどで一通り経営について勉強できたかなと感じ、次の道を考えるうち、御代田町で「子どもの未来を応援する住民運動」がスタートしたことを知りました。記者時代、地方で人材を育てる重要性を痛感していたことから、自分のやりたいことを支えてもらえる御代田なら、と思ったことと、長野市在住が長く、「いずれは長野県に」と言っていた妻沙織のことを考えて、移住を決意しました


【御代田時代】町長選に出馬表明しました

御代田移住を決めた後、栄町で「今日まで別の夫婦が住んでいた」という住宅を見せてもらい、家賃はこれまでと同じで広さは2倍以上という充実した内容で思わず即決しました

朝起きてちょっと北に向かい、浅間(前掛山)を眺めるのが日課です。毎日表情が変わり見ていて飽きません。曇って姿が見えない日は、なんとなく調子が狂いますね

町のいたるところに小川が流れ、せせらぎが聞こえる御代田の環境はとても贅沢。これだけでも移住してよかったなーと思います

新幹線の駅を二つ「持っている」のも間違いなく大きな魅力。もっとも、今のところ町内活動に忙しくて新幹線に乗る機会がなかなかこないのですが…。

買い物も、佐久、軽井沢、小諸のどこに行くのも便利で、妻も大変気に入っている様子。でも、ほんとは御代田町内でもっと用事が足りると最高なのですが

小学4年、1年の娘2人は御代田南小学校に通っています。南小は1学年3~4クラスあり、かなりの規模感。一方、こないだ北小に行ってみたら段違いにのどかなのでこれまた驚きました

生粋のウルトラクイズ好きなので、御代田町内を歩いていても、「ここで大声クイズやったら面白そう」「バラまきクイズはここだな」「このお店は罰ゲームにいいかも」と考えるのが好きです。しなの鉄道横断ウルトラクイズとか、もうちょっと広域で考えても楽しそうです

何年かに一度、落語のマイブームが来ます。「芝浜」の聞き比べなんて最高です。エコールみよたで1週間連続の「寄席」をやるとかどうでしょう!

好きなお笑いコンビはジャルジャル、サンドウィッチマン、ナイツ。特にジャルジャルは笑芸に詳しい妻の影響です。どんな漫才を聞いても楽しいので、一日中劇場にいても飽きません

好きな音楽は、25年くらいずっとmr. childrenなのですが、昨年あたり急に吉澤嘉代子さんに射抜かれてしまいました。曲ごとに違う歌声を持っている、いま若手女性の中で日本一の実力だと思っています。万一いま死んだら葬式では吉澤さんの「綺麗」をかけて送ってもらいたいくらいです。皆さん是非聞いてみてください

御代田で一番の夜景は、御代田一の小集落寺沢からの眺めだと思います。佐久平がぜーんぶ手に取るように見えます。ここは絶対名所になる! 夜景を見ながらの音楽フェスとか、ドローンのイベントとか、御代田の新しい拠点になるポテンシャルを感じます

ひとつひとつ挙げるときりがありませんが、御代田には宝物がゴロゴロあります。活かすも殺すも町民の気持ちにかかっていると思います。ドキドキワクワクのまちづくりに皆さんも参加してみませんか


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