小園ひろしは「阪神大震災」で被災したとき灘高校2年生でした

写真:神戸市

2019.1.17 阪神大震災から24年の朝

当時私は兵庫県神戸市にある私立灘高等学校の2年生。地震の影響で下宿が全壊しました。部屋に閉じ込められている向かいの下宿生を、ドアに体当たりして救い出し、向かいの家でうずくまっているおばあちゃんを外に連れ出して通りに出ると、下宿の一階がつぶれてなくなっているのが分かりました。

写真:神戸市

公衆電話から実家に連絡して、「大丈夫だから、かえって混乱させないようにこっちに来ないでほしい」とだけお願いしました。その後ほどなくして電話はすべて使えなくなりました。

それからは、近くの家で閉じ込められているおじいちゃんを、軒下の柱をノコギリで切り取るなどして救い出したり、毛布にくるまれた遺体を運んだり...私自身は見た目がもうおじさんだったので、体育館に遺体を安置しているご遺族から、「先生、申し訳ないのですが、お線香を上げるために正門近くの砂をいただけますか」と許可をお願いされるようなこともありました。

私にとっての防災意識の芽生えの日

その後、記者として人一倍、防災に関心をもって活動してきました。過日の北海道胆振東部地震では取材者ではなく人生2回目の被災者になりました。生活が落ち着くと、被害が一番ひどかった苫小牧市東部に位置する厚真町(あつまちょう)に家族4人でボランティアに行ってきました。

現地に着き、避難所となっている体育館に入った瞬間、なぜか「ここが僕の居場所だ」と感じました。考えてみると、阪神大震災で、私のものの見方や生き方は大きく変わったわけで、地震災害が、私の原点になっているのだと思います。

御代田は地震が少ないと皆口を揃えますし、実際、移住にはそういう面を大いに重視しました。しかし、多くの大地震は、それまであまり地震のなかったような場所で起きているように思います。御代田の備えは十分でない、と感じます。もちろん、目の前には活火山で厳重な観測対象になっている浅間山もあります。

他市町村を含めて避難先は十分か。経路はどうか?物資は?町内の各地域に「穴」はないか。あらゆる角度から考えてみる必要がありますし、私はその責任をしっかり背負う覚悟です。もちろん、事が起きたら何を差し置いても即座に陣頭指揮を執る用意もあります。

あれから24年、日本の防災及び避難論は、どれだけ進んできたでしょう。思い続けて、少しでも前に進めていくことが、あのなかを生き延びた私に課せられた使命なのだと思っています。


>>このサイトの記事一覧を見る

   






コメント